思考と読書【お金・健康・人間関係 編】

お金、健康、人間関係に関する本の書評と説明 ビジネス書や自己啓発が多くなると思います なるべく毎週投稿できるように頑張ります

■留魂録 を読んで

 

吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)

吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)

  • 作者:古川 薫
  • 発売日: 2002/09/10
  • メディア: 文庫
 

 

書名:吉田松陰 留魂録

著者:吉田松陰 全訳注:古川薫

 


●本書を読んだきっかけ

自分のSNSの自己紹介では

松下村塾のような学びの場を提供

するのが夢ですと書いてあり

そのことに対する問い合わせが

結構ある、そのような訳で

吉田松陰の教えについて調べようと

本書を購入した

 


●読者の想定

松下村塾は2/3が10代の若者

やはり、この年代に読んでもらいたい

これからの日本を動かす原動力は

やはり若い世代であるから

 


●本書の説明

学術文庫版のためのまえがき

松蔭の諸記録によく現れてくる人物は

おおよそ30人で、これが主要な松蔭

門下とみられる、身分構成は士分

下積みの階層に属していた人たちが

半々に分け合っており年齢別には

十代が三分の二を占めている

二十五日から「留魂録」に取り掛かり

二十六日の夕刻に書き終えた

・松蔭は六歳の時に兵学師範の

家職を継ぎ宿命的に「教師」として

生きた人物だった

 


Ⅰ 解題

処刑後、松蔭の遺体を引き取りに

出向いたのは桂小五郎、手附利助

小寺新之じょう、飯田正伯の4名

遺品の中に「留魂録」も含まれた

松蔭から指示されてもう一通の

留魂録」を隠し持っていたのが

牢名主沼崎吉五郎なのである

・「二十一回猛士」は死ぬまでに

全力をあげて二十一回の行動を

起こすと誓い、この号を好んで

使った

・松蔭はかつて門下生の高杉晋作

から「男子の死すべきところは」

と質問されたことがあった

これに対し明確な答えをしないまま

だったが江戸送りとなり死に直面

して初めて悟ったことがあった

松蔭が高杉にそのことを伝える

大要事のような手紙を出したのは

七月中旬

安政の大獄は、そもそも将軍後継

問題に端を発しており井伊直弼

かついだ紀伊派(家茂)の勝利にて

一橋派への弾圧、さらに幕政批判勢力

の一掃となって吹き荒れた

・尊攘堂と名付ける大学校には

天皇親王、公卿から武士、農商人

に至るまであらゆる身分の者の

入学を許し入寮寄宿もできる

設備を整える

 


留魂録

第1章

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも

留置まし大和魂

十月念五日

 


第2章

第3章

唐の段秀実は郭㬢には誠意を尽くし

朱泚には激烈に対して殺された

英雄は時と所によって、それにふさわしい

態度をとった。

大事なことは、己を顧みて疚しくない

人格を養うことだろう

そして、相手をよく知り、機を見るという

こともよく考えておかなければいけない

私の人間としての在り方が良いか悪いかは

棺の蓋を覆った後、歴史の判断に委ねる

しかない

 


第4章

第5章

第6章

しかしながら繰り返しこれを考えると

志士が仁のために死ぬにあたっては

このような取るにたらぬ言葉の得失

など問題ではない。今日、私は

権力の奸計によって殺されるのである

神々はあきらかに照覧されている

のだから、死を惜しむところはない

であろう

 


第7章

第8章

人の寿命には定まりがない

農事が必ず四季をめぐっていとなまれるような

ものではないのだ。しかしながら

人間にもそれにふさわしい春夏秋冬

があると言えるだろう

十歳にして死ぬ者には、その十歳の中に

おのずから四季がある。

二十歳にはおのずから二十歳の四季が

三十歳にはおのずから三十歳の四季が

五十、百歳にもおのずからの四季がある

十歳をもって短いというのは

夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ

百歳をもって長いというのは

霊椿を蝉にしようとするようなことで

いずれも天寿に達することにはならない

もし同志の諸君の中に私のささやかな

真心を憐れみ、それを受け継いでやろう

という人がいるのなら、それは

まかれた種子が絶えずに

穀物が年々実っていくのと同じで

収穫のあった年に恥じないことになろう

同志よ、このことをよく考えてほしい

第9章

私が祈念を込めて願うのは

同志の人々が強い意欲を持って私の

志を継ぎ、尊王攘夷の大功を立てて

くれることである

第10章

第11章

第12章

「玉となって砕けるとも、瓦となって

命を長らえることがあってはならない」

私はこの言葉に深く胸を打たれた

同志諸君、その時の私の気持ちを

察してもらいたい

第13章

天下の大事を成功させるためには

天下の有志の士と互いに志を

通じなければならない

一度敗れたからといって挫折して

しまうのは勇士とは言えないのでは

あるまいか。同志諸君、

切に頼む。頼むぞ。

第14章

第15章

第16章

七たびも生き返りつつ夷をぞ

攘はんこころ吾れ忘れめや

二十一回猛士

 


付 史伝・吉田松陰

・幼名は大次郎(松陰)、父は百合之助

明倫館は1719年に設立された藩校

経学・歴史・制度・兵学・博学・文学

の六科をおき藩士の子弟を入学させた

1840年に起こったアヘン戦争

半植民地化された清の様子は日本にも

伝えられた、大次郎はその概要を

初めてつかんだのは17歳の夏頃

和蘭紀略」を読みナポレオンが

同盟国を侵略したという記述に

大次郎はひどく憤慨した

彼にとっての読書とは、単に本を

読むことではなかった

全力を傾注する学業そのもので

あったのだろう

「阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)」

を読みイギリスの東洋進出に対する

幕府の危機感は深まった

大次郎が最も読みたかった本の一つ

吉田松陰攘夷論

アヘン戦争など列強による東洋

植民地化政策への警戒に基づく

ものではあったが単純な排外思想

ではなかった

九州の平戸における読書の収穫は

後に佐久間象山との接触により

新たな開眼と展開をとげる

平戸の書籍のほとんどは江戸から

運ばれたものであったと聞き

大次郎は幕府の中心地に思いを馳せた

江戸の藩邸での大次郎の生活は

質素そのものであった

日常の副食は金山寺味噌と梅干だけ

で済ませた

当代一流の洋学者佐久間象山

直接教えを乞う機会を得た大次郎

の感動は大きく

異国船で海外にまで足を向ける

ことを大次郎に決心させたのも

象山だった

後年、松陰は多くの弟子を旅に

送り出したが「飛耳長目」ということも

教えた、ただならぬ情勢の観察を

怠らないように助言する一方で

酒も飲むべし、詩もふすべしと

すすめることも忘れなかった

旅の本質を誰よりも知っていた

・大次郎→松次郎→寅次郎→松陰

・ペリーは江戸湾に侵入して

空包を打ち鳴らして威嚇しながら

親書の受け取りを迫る

・松陰は幕府を敬重すべき権威と

認めてはいたが、天朝の存在を

示し日本国は幕府の私領にあらずして

「天下は天下の天下なり」と明言した

また外国に対抗する兵力充実の

方策として進んだ外国の武器

洋式兵制の採用を主張した

松下村塾で英才を育てた事が

歴史を動かす力になりえた

教師としての松陰に与えられる

使命は討幕の戦列に奔走する

戦士の養成であり革命の遺志を

彼らに付託することであった

宿命的に教師であった松陰の生き方は

時と場所を問わず不思議な力を

もって展開され、そこにいる人を

引きつけずにはおかなかった

・十二月に出獄するまでに

総数554冊、下獄以来3年間で

およそ1500冊を読み、その上

「幽囚録」「野山獄文稿」「回顧録

をはじめ3年で45篇にのぼる著述を

完成させている「吉田松陰全集」の

文稿の大半が第一次野山獄時代から

松下村塾開講前夜にかけて数年に成った

「講孟会話」では孟子を罵るように

批判を加えている部分もある

孟子を通じて、己の志を語った

・誠を尽してそれに感じない者は

いない、至誠とは松陰が死ぬまで

貫いた態度だった

・天の解釈は天朝であるとする

天皇が「天」なのである

・自分の生まれた土地がどのような

僻地であろうと、それに劣等感を

抱く必要はなく、その場所で

励めばそこが「華」だ

・官学教育内容にあきたらない人

たちも多く村塾の門を叩いた

高杉晋作は親に隠れて2キロの

夜道を通った

松陰は国事犯として幽囚中の身で

あったから

・れっきとした侍の子供から

足軽や中間や商人の子が

対等な友人として結び合う時

閉鎖的身分社会には求められなかった

全く新しい「友情」の場が

そこに生まれた

明治維新を先駆けた長州人の力

を支えたものが封建的身分関係を

超越した友情であったとすれば

その機運を最初に作り出したのは

疑いもなく松下村塾の学生だった

松下村塾は一日三十人程度が

通い在籍数はその十倍くらい

ではないかとという

教えるというより諄々と説き

訴える調子が目立つ

内面に激しく情念を燃やしながら

人間に対しては限りなく優しく

怒らず、そのモットーとする

「至誠」を掲げて接近していく

松陰の感化力の秘密はそのあたりに

あったのかもしれない

・P196–197 主な塾生の氏名と年齢

年齢別には十代が三分の二を占めていた

また半数が明倫館教授時代の

兵学門下生だった

・自分の手許を離れていく塾生達

には松陰は必ず「送叙(送序)」を

送って励ました

単なる激励文ではない自分との出会い

を語り本人の性格、資質の長所を

教え憂うべき時勢を述べて

それに対処すべき志士の心構えを

説き、そして訣別の言葉で締めくくる

幾らかは時間をかけて推敲した

心のこもった名文となっている

・日本列島に加わりつつある外圧

をはね返す戦いを始めなければ

ならない「自由をわれに」という

闘争を進めるためには幕府も諸侯も

あてにならない

安政六年(1859)十月二十七日

吉田松陰は小伝馬上町牢の刑場で

波乱に充ちた三十歳の生涯を閉じた

留魂録」を書き上げた翌日である

 


あとがき

釈迦は入滅の直後

「私の死後、私の説いた方と戒律が

汝らの師として存在するだろう」と

語ったという。釈迦の生前の説法は

そのままが遺書となり教義となって

仏教という巨大な宗教をかたちずくった

吉田松陰は門弟高杉晋作に教えた

「死して不朽の見込みあれば、いつ

死んでもよし」という死生観そのままに

松下村塾に在籍した主要な顔ぶれ

三十名は明治まで生き残ったのは

半数にしかすぎなかった

 


●本書から得られた新しい知識

懐徳堂:大阪におかれた学校

半官立の学校となり士庶共学だった

が庶民が多く逸材を世に出した

・久保塾:寺子屋程度の入門的な塾

多い時は70〜80名が集まった

伊藤博文も通塾していた

やがて松下村塾と合併し

松下村塾の3期生になった

松下村塾の記:松陰の教育理念

 


●本書に出てくる格言

・君は問う、男子の死すべきところは

どこかと。

私も昨年の冬投獄されて以来この

ことを考え続けてきたが

死についてついに発見した

死は好むものではなく、また

憎むべきものでもない。

世の中には生きながらえながら

心の死んでいる者もいるかと思えば

その身は滅んでも魂の存在する者もいる

死して不朽の見込みあらば

いつ死んでもよいし

生きて大業を成し遂げる見込みあらば

いつまでも生きたらよいのである

つまり私の見るところでは

人間というものは

生死を度外視して、要するに

なすべきをなす心構えこそが

大切なのだ

・我今国のために死す

死して君親に背かず

悠々天地の事

鑑照明神に在り

〈五語絶句〉

・僕は毛利家の臣なり

故に日夜毛利に奉公することを

練磨するなり、毛利家は天子の臣

なり。故に日夜天子に奉公するなり

吾等国主に忠勤するは即ち

天使に忠勤するなり

・松陰二十一回猛子とのみ御記し

頼み奉り候

・身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも

留置まし大和魂

・今日死を決するの安心は四時(四季)

の循環において得るところあり

吉田松陰

 


●本書で得られた気づき

・死して不朽の見込みあらば

いつ死んでもよいし

生きて大業を成し遂げる見込みあらば

いつまでも生きたらよいのである

人間というものは

生死を度外視して、要するに

なすべきをなす心構えこそが

大切なのだ

・最近の成功系の本やセミナーは

ほとんど全てが個人の成功に

フォーカスが当たっているが

松陰の場合は日本国の将来を

考え外圧に屈しないところから

自由を求めたと思う

また、現在の政府にあたる幕府

なんか当てにしてはいけない

とも言っているから

今の日本も若き志士を育てれば

きっといい時代がくるのではないか

と切に思う

若年諸君、切に頼む、頼むぞ。

 


●今までの自分の考えと違ったところ

尊王攘夷を主張する理由が分かった

毛利家は天子の臣であると松陰は

考えていた、この疑問は中学高以来の

疑問だったのでスッキリした

 


●本書の内容で実行してみたい事

「至誠」

 

吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)

吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)

  • 作者:古川 薫
  • 発売日: 2002/09/10
  • メディア: 文庫